竹端寛氏の「ケアしケアされ、生きていく」を読みました。
きっかけは朝日新聞Podcast。本書では「ケア」という言葉が今日の日本では狭義的な意味、すなわち「弱者のための特別な営み」という意味で用いられている事、そして大学生ひいては多くの大人たちが感じる「生きづらさ」または社会現象を通してみる生産性至上主義や"人に迷惑をかけるな"という「迷惑をかけるな憲法」に囚われている人々に焦点をあてて、社会を見つめ直すことで「生きづらさ」などの解決方法と考え方を示すものである。
まず「ケア」という言葉に関しては政治学者ジョン・トロントを引用し以下の5種類を提示する。
- 関心を向けること
- 配慮すること
- ケアを提供すること
- ケアを受け取ること
- 共に思いやること
ここで、一般的な「ケア」のイメージと異なるポイントは最後の「共に思いやること」であると論じる。本書では、この「共に思いやること」をテーマとしている。
第1章では大学生の事例が紹介され、第2章では著者の子供である6歳の女の子の事例が紹介されるが、この2つの章では子供の事例を通して大学生の思考が如何に「迷惑をかけるな憲法」をはじめ、生産性至上主義に捕らわれているかを描く。
第3章は著者自身の事例の紹介となるが、ここまでの3世代を通して見えてくるものは主義主張が世代間連鎖を引き起こしているのではないかという点と「迷惑をかけるな憲法」などにより「世間や他人にとって都合の良い子」を生み出しているという事実である。
本書でケアが満たされていない状況として具体的にあげられているのは、伊藤絵美「辛いと言えない人がマインドフルネスとスキーマ療法をやってみた」から引用される以下の部分だろう。
- 人との関わりが断絶されること。
- 「できない自分」にしかなれないこと。
- 他者を優先し、自分を抑えること。
- 物事を悲観し、自分や他人を追い詰めること。
- 自分勝手になりすぎること。
本書におけるケアとは「共に思いやること」であり、with-ness、すなわち「あなたと私がともに思いやり、考え合う」という事であるが、一人で思い悩み自分の意見を素直に言う事ができず、その結果自分で物事を考えなくなるようになることで世の中がケアレスの状況となっているのではないだろうか。
本書では生産性至上主義的な社会からケア中心の社会への移行を提言する。